2006-05-10 [長年日記]
■本日の自己言及的文
実は私、"自己言及"というものがどういうことなのか、ちゃんと理解していない。
論理学を専攻していたわけでもないし、素人向けのパズル要素が強い本を読んでいるだけ。G.E.B.も読書途中で止まっているという有様だ。
だからこそ、自己言及っぽい文をひねり出しては考えたり書いたりしている。
昨日のエントリも、後ろの2段落は"私の文"だがその前は"借り物の文"だ。
さて、結城さん(id:hyuki)からお題をいただいている。
この文は自己言及文ではありません。
結城浩のはてな日記
これだ。
パッと見て「パラドックスだ!」と思ってしまいたくなるが、ここはこらえてみよう。なにせ「"自己言及"というものがどういうことなのか、ちゃんと理解していない」のだから。
case 1
これが真に"自己言及ではない"場合。
「この文は自己言及文ではありません」は"真の命題"ということで終わり。
case 2
これが真に"自己言及である"場合。
「この文は自己言及文ではありません」は"偽の命題"ということで終わり。
case 3
これが"命題でない"場合。
素朴集合論に楔を打ち込んだ"ラッセルのパラドックス"に出てくる"あの集合"。あれがZFC公理系では"構成できない"のと同様に、この文が"命題として扱えない"という可能性は、ある。
case 4
真にパラドックスである場合。
別に解説はいらないだろう。
case 5
単独では"自己言及である"か"ない"かが定まらない場合。
例えば、
論理学では"自己言及"というのは××××として定義される。
したがって、
「この文は自己言及文ではありません」
は自己言及ではない(or 自己言及である or パラドックスである)。
というような文脈の配下では「この文は自己言及文ではありません」の真偽もしくはパラドックスであるかどうかは、前にある××××がどうなるかで変わってくる。もっとも、これは例としては正しくない。case 1 〜 case 3 ですでに言及しているのと同じことを言っているだけだから。
でも適切な例が思い浮かばないので勘弁して欲しい。
さて、本当のところはどうなんでしょう?
■バーテンダー 5
「オー・ド・ヴィー」
「ウシュク・ベーハー」
「アクアヴィット」
「ジーズナヤ・ヴァダー」
「ウィスケ・ベサ」
「ウスケベル」
「アクア・ウィタエ」
これら全て、「命の水」。
追記
「ジーズナヤ・ヴァダー」が「ウォッカ」になった、と本編で語られているが、「ウォッカ」はキリルで書くと「Водка」。原音に近いカタカナ表記は「ヴォトカ」、「ウォトカ」。子音のみの"д(デー)"が、後ろの清音に依って発音は「ト」になっている。
ブランデーに関して、
もともとは「オー・ド・ヴィー」と呼びます
と書いてあるけど、「ブランデー」は英語で、この名前はドイツ語の「ブラントヴァイン」、オランダ語の「ブラントヴィン」を由来とするようで、「焼きワイン」の意味。ラテン語の「アクアアルデンス」、「燃える水」も由来として挙げられる。
英語で「ardent sprits」といえば、「燃えるような酒」つまり「強い酒」になる。
ラテン語の「aqua vitae」の発音が「アクア・ウィタエ」に近いのか判らんかったが、これについてはからくりサーカスの表記に従った。
■タック&タカチの事件簿 ツー
解体諸因原作が3分の2か。パズラーなんだけど、テーマのせいで読後感がブラックな方向にバイアスがかかってしまう、という欠点があった。
その辺が大橋薫のヴィジュアルのおかげで救われている感じがする。
大橋薫が少女漫画の畑でホラーを描いているということもうまくハマっている。バラバラ死体の描写について、「気持ち悪い」描写と「怖い」描写、「どちらでもない」描写が考えられるけど、その辺の描き分けが意図的にできるんだろうなぁ。
追記
麦酒の家の冒険は中長編の漫画にならないだろうか? やっぱり無理かなぁ。
余談
本屋で、
を表紙買い――というか既視感を感じて、つい買ってしまったのだけど、後から気がついた。
この既視感は、
のせいだった。これリアルタイムで(つまり本誌で)読んでいたからなぁ。
■夢幻紳士 逢魔篇 とか
喝采!
GWに実家に帰った時に夢幻紳士一気読みをしてきた後に、この最新刊がでているのを知って早速購入。
やっぱいいわぁ。
で、だ。その一気読みをしてきた夢幻紳士がちょうど文庫になって再版。書き下ろしもあるし、元の本の保存状態が悪くて紙が劣化してきているのもあるし、結局買ってしまった。