2006-04-07 [長年日記]
■私の見つけた宝物
読んだ。
そして、私は別の宝物を見つけた。いや、宝物へと続く道を見つけた、ぐらいか?
p4
「∞は無限大という数ですね」
「無限大は《数》じゃない。少なくとも普通は、数として扱わない。たとえば、実数に∞は含まれていない」
p16 の注釈
*2 数ではない∞が等式に表われている。このときの等号(=)の意味を考えよう。
なるほど、私の3/17の日記
にコメントをもらったのは、結城さんがこのお話を書いている途中だったからなのかな? と思った。
さて、p4 の「僕」の台詞が意味深だ。
少なくとも普通は、
とわざわざ制限したのは「僕」の知識に依るもの? だとしたら「僕」はかなりの数学好きなんだな、と思った。
「無限大」を「数」として取り扱う公理系が存在する。「そこ」では「無限大」も「数」の仲間だ。「そこ」は「無限大」という「数」が無限に存在する世界。「超現実数」という世界。
私の知識はそこまで。「そんなのもあるんだ」ぐらいしか知らなかった。
ところが、p27 「世界に素数がふたつだけなら」に入ったあたりで、私の頭の中は物語から離れはじめる。いや、過去に――去年の11月に――戻っていった。
p28
さて、2または3だけを素因数に持つ正の整数は、この和のどこかに必ず一度だけ現れるよね。
p29
「ふむ。素因数分解の一意性のことか。《すべての整数は素数の積で一意に書くことができる》ので、《世界に素数が2と3しかなかったら、5や7や10なんて整数はない》と言いたいんだね。(略)」
「全ての整数は素数の積で一意に書くことができる」
「素数は無限にある」
「素数の集合は可算無限集合である」
「『素数の集合』の部分集合の集合は、連続無限集合となる」
に繋がる!?
「『素数の集合』の部分集合の集合から有限の集合だけを取り出す。その元となる集合に含まれている素数の積を考える。それは自然数の集合になる」
そこまでは考えていた。
じゃ、余った無限集合の元は?
「『素数の集合』の部分集合の集合には無限集合が元として含まれる。それに含まれる素数の積を考える」
これは無限大に発散し、したがって自然数ではない。
と以前書いた。
「これ」を「無限大」という「数」だと捉えたら?
「超現実数」の世界では「無限大」という「数」は無限にある、という話は聞きかじりの知識として知っている。
もしかしたら、素数の集合に対して「無限大」という超現実数を導入したら、「無限大」という数は連続無限集合の濃度を持つ無限集合になるのではないだろうか?
ならば、実数の世界、\(\aleph\)
の濃度を持つ連続無限集合の世界に「無限小」「無限大」という超現実数を導入すると、その濃度は……一体?
さて、この道はどこに続くのか。
追記 2005.4.8
「無限大」という数は連続無限集合の濃度を持つ無限集合になるのではないだろうか?
と上に書いたがその補集合べき集合*1もまた「超現実数」であり……、「無限大」や「無限小」の濃度を考えることに意味はないことに気がついた。
「さて、この道はどこに続くのか」と締めたわけだけど、その道がどこに続くのかは知っている。
に、その答えはきっとある。
外出先で「テトラちゃんとハーモニック・ナンバー」を読んでいた最中に、「無限大」を「数」として捉えること、を思いついた瞬間、ぜひとも読みたくなって買ってきた。
著者に注目。「テトラちゃんとハーモニック・ナンバー」はLaTeXを使って書かれたものだけど、そのLaTeXはTeXから派生したヴァリエーション。この本の著者は、TeXの作者 Donald E. Knuth その人。
「テトラちゃんとハーモニック・ナンバー」の参考文献の[4]、『The Art of Computer Programming』もKnuth先生の著書。
結局、Knuth先生の後ろを追いかけているだけなのだな。
「至福の超現実数」を読んでみて目を剥いたのは下の文だった。
p142
2×π≡π+πを正当に証明できるけど、π+πを有限回の手順で計算できるとは限らないってことね。神様だけが計算を終えられるけど、人間にできるのは証明を終わらせることだけってこと。
理解するにはほど遠いのだけど、面白い本だ。
追記 2005.4.9
至福の超現実数を一読して、一日の時間が経った。あらすじらしきものをまとめられるぐらいには消化できたらしい。
ま、要するに、空集合φから出発して「数」という概念を厳密に定義しなおす、という小説だ。1や2といった日常的な数さえも自明ではないという所が出発点。
最初の日(第ゼロ日と表記されている)に0(らしきもの)が現れ、翌日には1(らしきもの)と-1(らしきもの)が現れる。その翌日には……、と続いていく。どんな自然数もいつかは姿を現わすのだろう。
それらの「数らしきもの」に推移律(x≦y かつ y≦z なら x≦z)が成立することを検証し、0(らしきもの)と1(らしきもの)の間が存在することを発見し……、やがて「数らしきもの」が本当に「日常的な数」の様な性質を持っているのか? ということを考えはじめる。「日常的な数」にある様々な性質が、「数らしきもの」でも成立することを証明していく。
そして、その果てに「実数」や「無限大」や「無限小」が姿を現わす。
で、ここにきて、
はおろか、
までもが、この小説と根っこのところで繋がっていることに気がついた。
11月から12月にかけて、「素数の集合のべき集合で自然数を表現する」とか「2のべき乗の集合のべき集合で自然数を表現する」とか、「自然数は有限の桁数で表現される」なんてことを考えていなかったら、今この本を読んでも(例え表面的なものであっても)理解が追いついたかどうか? 多分無理だったんじゃないか?
いやいや、11月から12月にかけてそんなことを考えていたからこそ、「テトラちゃんとハーモニック・ナンバー」を読んでいる途中で「無限大」や「無限小」にいたるモデルを想像することができたのだし、この本を読もうという決心ができたとも言える。
そう思うと、様々なことが「いいタイミング」で起こった結果として、この本に出会えたのかなぁ、などと考えるのであった。
追記
無限上昇螺旋階段付音楽室 は G.E.B. か、バッハの「音楽の捧げもの」の「螺旋カノン」を参考文献に書くべきだったのでは?
*1 「部分集合の集合」のこと。最初に書いた時に、誤って補集合と書いてしまっていた。