2006-04-12 可能無限, マウス オブ マッドネス [長年日記]
■マウス オブ マッドネス その1
映画"In the Mouth of Madness"(DVDは asin:B00005HYWP)のノベライズ。
朝松健氏だ!
ということで読んでみる。
p62
「しかし、ケインは、他の作家とどこか違っているな。なんだか自分の作品は、全て真実だと信じているみたいな……」
「SF作家のヴァン・ヴォークトも同じそうだったらしいぜ」
……事実なのだろうか? ヴァン・ヴォークトは「非(ナル)Aの世界 (創元SF文庫)(A.E.ヴァン・ヴォークト/中村 保男)*1」の作者ね。
p82
見馴れたものが、すべて消えてしまい、見たこともないもので世界が埋め尽くされたら? あなたは、どうする? 最後の一人は、きっと怖くて寂しいわよ
あれ? この映画*2もこのモチーフで解釈していいんだろうか?
マチスンの「地球最後の男」
とか、その換骨奪胎、藤子・F・不二雄の「流血鬼」
のテーマだな。
p102 トレントの台詞
「なぁ、リンダ。いい加減、現実を見つめようぜ。これはケインの小説世界じゃないし、おれたちは奴の創ったキャラクターじゃない」
いい台詞だ。にやり、としてしまう。
p103 リンダの台詞
「(略)パトリシア・ハーストが過激派に誘拐され、洗脳され、同志となってしまった事件――」
んー。
p51
このように、パティがターニャに変わった過程は、もはや一九五〇年代の「洗脳」とは異なるものであることが示唆される。
パティはパトリシアの愛称。ターニャは過激派に参加する様になってからの自称。
この事件がちょうど「洗脳」と「マインド・コントロール」の端境にあたり、また「マインド・コントロール」という社会心理学的テクニックについての研究の端緒でもある。
なので洗脳という言葉にはちょっと違和感を覚えた。
ちなみにハースト事件は1974〜5年。カルト・マインド・コントロールが洗脳とは違うものであるとして区別されはじめるのが1980年代後半。
今だと、
が入手しやすいのかな?(と、思ったら、マインド・コントロールとは何か(西田 公昭) も増刷されてるみたいね)
p133 トレントの台詞
「昔、ホラー映画にこういうのがあったな。『死ぬまでジェシカを怖がらせよう』……その伝でいけば、今回のタイトルは、こうだ。『死ぬまでジョン・トレントを怖がらせよう』……違うか?」
渋っ。
邦題は「呪われたジェシカ」。
題名が出てくるのがトレントの台詞の中なので、原題の「Let's Scare Jessica To Death」の訳になっているところが、細かいなぁ。
でもトレントが観ていそうな映画には思えないのだけどね。
で、小説を読み終わった後で、ビデオを借りてきて映画を観てみた。
これで4回目ぐらいかな?
朝松健氏の筆を以てしても、この映画の面白さにはちょっと敵わないかなぁ、と思った。
ただ、映画では中盤で特殊メイクやクリーチャーが出てくるあたりが、実は一番怖くない。そこまでの「現実が変わっていく」という暗示的な描写の方が面白く思えて、クリーチャーが出てきた途端「いかにもなホラー」っぽさを感じてしまう。そこを通り過ぎるとまた面白くなっていくのだけど。
で、小説版の方はその中盤が、面白さが厚みを増して書かれていて、上手いなぁと思う。
あとは、ぱらぱらと感じたこととかを書いていこう。
ホラー好きな読者/観客なら「名状しがたい」という形容詞を期待するだろう、と思ってしまう部分が、映画字幕ではそうなっていなかった。
朝松さんはその辺りは外さない。小説を読んでいるので「そこはやっぱり『名状しがたい』って訳すだろう?」というポイントがハッキリ判る(英語のヒアリング能力が前に観たときよりも向上している、という要因も少しはあるけど)。
その1で書いた、
p82
見馴れたものが、すべて消えてしまい、見たこともないもので世界が埋め尽くされたら? あなたは、どうする? 最後の一人は、きっと怖くて寂しいわよ
の台詞は、確かに映画にもあった。
あと、小説末尾の解説を読んで初めて知ったのだけど、この映画、エンドクレジットに主要な登場人物がでてこない。気がついていなかった。
他にも小説を読んで初めて知って、映画を観て「あぁ本当だ」と思った点は多数あった。それだけでも、読んで良かったかなぁと思った。
映画には先行する小説群(主に Cthulhu mythos もの)へのジョン・カーペンターのオマージュが満ち満ちている。
それでだろう。小説の方では、逆に先行するホラー映画群へのオマージュが多数挿入されている。
で、
p200-201
「モーテルのTVで流れているSF映画は」、およそまともな神経ならば耐えられないものだった。主演はゴリラの胴体に、骸骨の頭、そして宇宙人のヘルメットを被ったチープな怪物だ。そいつが半裸の女を抱えて、のたのたと歩いていた。
「……見たことがある。『ロボット・モンスター』って映画だ……」
って、あんた、見たことあるんかい!
「ロボット・モンスター」という映画については、
に詳しい。なんとこの映画の記事に2ページを割いている!
編集者からのオーダーは「なるべく詳しく、『ロボットモンスター Robot Monster』(53年・未)の物語を紹介してほしい」という大胆不敵なモノである。映画史上最低の誉れも高きこのデタラメな映画を堂々と解説できる機会はもう二度とないだろーなと思うと、ちょっと震える。
タイトルバックはアメコミ風のレイアウトとオドロ系BGMのミスマッチが素敵。作曲はなんと巨匠エルマー・バーンステイン!
と始まる。
そのぐらいマイナな、けれどカルトな映画。あ、そのシーンでそんな映画がかかっていたっていうのも、小説を読んでなきゃ気がつかなかった点だな。
その2に続く。
■可能 その2
うーん。現代数学の側に居ると「可能無限」の世界って……想像できないというか。
多分こんな話は1998年以降山ほどなされていると思うのだけど、まぁ書き記しておこうか(なんで1998年なのかは後述)。
自然数は確かに無限に存在し、1,2,3,,,, と数え上げていくことができる。しかし、「自然数の集合」という概念は「可能無限」の世界では取り扱うことはできない、らしい。
と、いうことは、日常的に使っている交換法則や分配法則や結合法則さえも「全ての自然数で」成立するかどうか? を証明することができない、はずだ。
それどころか、100 + 100 = 200 という様な計算さえ、200 まで数え上げなければそれが正しいかどうか確認できないということになる、だろう。
100 + 100 = 200 だと例として不十分か。123 + 234 = 357 という計算をするにしても、意識してはいなくても 123 + 234 = 100 + 20 + 3 + 200 + 30 +4 = (100 + 200) + (20 + 30) + (3 + 4) = (1 + 2) * 100 + (2 + 3) * 10 + (3 + 4) = 300 + 50 + 7 = 357 という様に、交換法則や分配法則や結合法則を使っている、と思う。
ということは、ここにでてくる一番大きい数、357 まで数えあげつつ、式の変形の途中で使っている諸法則が成立することを確認していって、初めて 123 + 234 = 357 が真であると確信できる、ということになるのではないか。
国家予算規模の数字を扱おうと思ったら、「可能無限」の世界に生きている人々は、どうするのだろうか?*3
1998年という年について語ろう。
この本が出版された年だ。
ちょっとした確認をしてみた。
これが、
All The Web で、1998年8月31日以前で"可能無限"を検索した結果。0件だ。
で、こちらが、
1998年9月1日以降で"可能無限"を検索した結果。
はい。見事に偏っている。
事実を示すのみにしておこうか。
ちょっと前にも引用したのだけど、
この本は、純粋に公理から出発して、「数」や「可算」や「加算」や「交換法則」や「分配法則」や「結合法則」を導き出すという小説。ということで「実無限」側に立っている本。
p142
2×π≡π+πを正当に証明できるけど、π+πを有限回の手順で計算できるとは限らないってことね。神様だけが計算を終えられるけど、人間にできるのは証明を終わらせることだけってこと。
これを読むと、「可能無限」の世界って、π+π=2π ですら人間の手では導き出すことができない世界だな、とそう思うわけで。
にコメントがついたぞ。ワクワク。
しかも可能無限を受け入れられる人 = 無限集合公理の不在を受け入れられる人、みたいだ。
私は、
を読んでおらず、Web上に散見される、メタ・コンテンツだけしか目にしていない、と立場を明確にした上で。
ZF公理系から無限集合の公理を取っ払ってしまうと、「自然数」の定義が無くなってしまう。ということは「全ての自然数」についての定理(=公理から導出できる命題)が全てチャラになってしまう。
前のエントリでも書いた様に、交換法則や分配法則や結合法則でさえも「全ての自然数」で成立すると言えなくなる。
無限集合が無くなると、自然数をn進数で一意に表現することもできなくなる。だって \(\{2^{0},~2^{1},~2^{2},~2^{3},~2^{4},~,,,\}\)
や、\(\{10^{0},~10^{1},~10^{2},~10^{3},~10^{4},~,,,\}\)
というような無限集合が考えられなくなるわけだから。
実無限は無限集合の公理でやっと存在が担保されるものですよね?
結城浩のはてな日記
3の存在にはそんな仮定がいらないから「可能3」って意味不明です.
とコメントがついているけど、そんなことはない。
3という自然数も「無限集合の公理」が無い世界では、公理から導出できないんだから。3 のZF公理系での定義は {φ, {φ}, {φ, {φ}}}。空集合の公理と無限集合の公理が無いと存在できないでしょ?
追記:あ、なるほど。対の公理があれば {φ, {φ}, {φ, {φ}}} まではいくのか〜。無限集合の公理がなくても「全ての自然数」に対する命題が言及可能なのかな? 勉強不足なので判断できないです。まぁ、少なくとも、この段落は読み飛ばしてもらっていいです。
追記の2:んー? やっぱり、対の公理では自然数を定義できない様な気がするんだが……。勉強不足だなぁ。
追記の3:追記の2は無かったということで。
この混乱が起こったのは、最初に挙げた本の著者が哲学者だ、ということにあるみたいだ。
ZF公理系から無限集合の公理を取り除いた上で、そこにどんな公理を付け足せば自然数や自然数が持つ性質――演算や比較の定義、その性質――を保持する新しい公理系を作れるか? が説明されていれば、まぁ納得できるのだろう。
けど、Webで検索してメタ・コンテンツを読む限りでは、どうもそうではないらしい。
最初に挙げた本のカスタマーレビューにも、
筆者が哲学者ゆえ、数学者は本書を足蹴にしているようだが、
という文が見られるけどそうじゃないんじゃないだろうか。
「実数という考えは無限集合の公理をよりどころとしているんだよ。無限集合の公理なんてアヤシゲなものを取り除いてしまうと実数なんて概念は霧散してしまう」と説明しているサイトは数々あれど、「無限集合の公理を取り除くと自然数の定義もあやふやになってしまうからこういう公理を付け足す必要がある」とは説明してくれない。だから数学者はこの本に価値を見いだすことができないんじゃないかな。
現代数学の公理系から「無限集合の公理」を取り除いて、替わりになる公理を提唱しないなら、数学は(おろか「算数」のレベルの定理群までも)全て瓦解する。でもそれは当たり前のこと。
ZF(C)公理系は数学者達が細心の注意を払って磨き上げてきた「玉*4」だもの。まぁ、もっとも、無矛盾性は証明できないわけで、もしらしたらとんでもないところから「矛盾を孕んでいる」なんていう疵が見つからないとは、誰も言えない。
余談
にこんな会話がでてくる。
「数学は自明である公理から始まり
そこから定理を導き出して命題を証明する
現代数学の公理は集合論だ
その前提となるものは何だ?」
「空集合φ つまりゼロが存在する」
この巻が出版されて初めて読んだ時は、この会話の意味を正しく捉えていなかったんだな、と今になって思う。
追記
可能無限に関しての私の結論は、
で書いた。
■自分の言語をGloriaと名付けようと思ったものの、家庭内での混乱をまねくのは明らかなのでやめた
ウケタ。コーヒーを飲んでいる時じゃなくてよかった。
私: 今日、Rubyがおかしくなっちゃってさあ。
Matzにっき(2006-04-06)
娘: え?