2006-03-17 [長年日記]
■ウィルス?
コンピュータウィルスの定義は広い。
SQLインジェクションでDBのデータとして自己を複写し、そのデータがそのまま別のICタグに書き込まれると、その別のICタグも「同様の手段で自己を複写する」ICタグになってしまう……のだろう。
さて感染能力はあるわけで、現時点では実証実験にとどまっているわけだが、ここをついて利用者に不利益を与える同種のものがでてくる可能性は高い。
ここで「データをサニタイジングする必要がある」「データをサニタイジングすれば大丈夫」なんて言ってしまうと、それはすでに思考停止以外のなにものでもないのだろうなぁ。
植え付けたウイルスは、『SQLインジェクション』と呼ばれる手口で、無線タグ・システムのデータベースを改ざん。
Yahoo!ニュース - WIRED - 無線タグに入り込むウイルス、研究者が試作
■C.M.B. 読んだ
C.M.B.って東方の三賢者の頭文字だったのか!
気がつかなかった……(本誌では読んでいない)。
ヒロイン(と言えるのか?)の造形ががQ.E.D.と同じなのがちょっと気になる。
主題として、「謎を明かす」のではなくて「不思議を見せる」ことをもっと突き詰めた方が面白そう。
まぁ、1巻ということでとりあえず人物 & 基本設定紹介みたいなものだから、これからに期待。
さて、東方の三賢者(定冠詞が付いて the three magi)からちょっとネットで調べてみた。
Many references to the three magi can be found in various games and shows. For example, in the Neon Genesis Evangelion anime/manga series, a supercomputer (called "MAGI") is divided in three distinct parts, all of which are named after the Magi.
Magus - Wikipedia, the free encyclopedia
英語版の Wikipedia に出てくる例が、"Neon Genesis Evangelion"だ。
なんだかな〜。
■Q.E.D. 23 を読んだ。
いとこだったのかよ!
……それは兎も角。
ついに出てきたか。リーマン予想。
とはいっても、こいつは命題を理解することそのものが困難な代物(私は理解できない)。どういう風に扱われるかに興味があった。
やってくれました。「リーマン予想に魅入られた者」というテーマでくるとは……。ミステリィとしての仕掛けは、秘密通信。広義でいう暗号解読。
さらに燈馬君はMIT時代、リーマン予想をテーマにしていたことが明かされる。そういえば、「Q.E.D.―証明終了 9」収録のエピソード「凍てつく鉄槌」でゼータ関数に関する発表をしていたという描写があったことを思い出した。
かつて自分の手で閉ざしたその道を、また歩き始めるのか。
水原さんは燈馬の名を呼び、そして……何も言わない。
もう一つの話は、もうこれは読んでいて頭に浮かぶのはあれ。ミステリィの大御所クリスティの「オリエント急行の殺人」。
ということはそれがミスディレクションとして使われるだろうというのは、見当がつくわけで。ミステリィを読むときには「謎を解こう」という姿勢を棄てている私でも――私はきれいに騙されたくてミステリィを読んでいるので――そこまでは思いつく。
あとはどういう風に来るのか。と思ったら、直球のロジカルな謎解きでスッキリした。
さて、次は"もうひとつの QED"を読まないとね。
追記
四色問題の話がちょっとだけ出てくる。どんな白地図でも隣り合う地域同士を別の色で塗るためには四色で充分である、という命題。
買ってあるけどまだ読んでいない。やれやれ。
Q.E.D.の説明だけだとちょっと判らないと思うので補足……しようと思ったのだけどなんか簡潔に説明できないや。でも一応。
ケーニヒスベルクの橋の問題(http://www.hyuki.com/math/interview.html, あるいは前述のエピソード「凍てつく鉄槌」を参照)に見る様に、地図の問題はグラフ理論に還元可能だ。
あるグラフの集合を考える。それは次の性質を持つ。いかなるグラフを持ってきてもその「あるグラフの集合」のどれか一つがサブグラフとして含まれる。
そんなグラフの集合を不可避集合とする。
次。
ある不可避集合を考える。それは非常にうまい集合である。どんなグラフも(不可避集合の定義から)その「ある不可避集合」の要素をサブグラフとして持つ。かつ、そのサブグラフを取り除いたグラフが四色に塗り分け可能なら、元のグラフも四色に塗り分け可能である。そのような非常にうまい不可避集合があるのならば、四色問題は解決する(らしい。自明ではないが理解不足により割愛)。
ここにコンピュータを使った。その様な非常にうまい不可避集合をコンピュータを用いて求めた。
問題は、そこで作られたプログラムが本当に正しいのか? が当のプログラムを作った本人達以外が理解できなかったこと。
故に、それを以て本当に「証明」あるいは「解決」と言えるのか? という論争を巻き起こした。
現在では、そのプログラムも詳しく検証され、改良され、四色問題の解決が否定されることはなく四色定理となった。
■QED 神器封殺
袋とじの中についてはノーコメント。
その他についてもいくつか「知らなかったなぁ」とか「全然気がつかなかった」とか思ったことはメモを取っておいたけど、別にここに書き出すほどのものはないなぁ。
中盤は非常にワクワクしながら読んだ、とだけ書いておこう。
あ、そうだ。
ビタミンB1を世界で初めて発見したのは日本人だった。が、その発見者鈴木梅太郎さんは医学博士ではなかったという理由で医学界から無視され、結局その1年後にイギリスの研究所で同一の物質を発見して「ビタミン」と名付けた。この「ビタミン」は"その後に"ようやく売られるようになってやっとのことで脚気(かっけ)で死亡する人数が減少しはじめた……。
という話が載っていた。
攻殻機動隊SACの地上波放送分を撮っておいたのを観ていた(というかBGVにしていた)のが、つい昨日の話だったのでこのタイミングの良さにビックリした。
■買ってきた
遅まきながら。
目次をながめてみたら「高速道路」論の章があるみたいだったので買うことにした。
本屋で見かけてしまった。
葛生千夏に出会ったことで気にいっていたこともあって、対訳なら、と思って買った。
あのぉ、"The Raven"中の非常に重要な韻でもある"Nevermore"が、対訳の方で日本語に訳されていない("Nevermore"とそのまま書いてある)んですけど……。
いや……でも、しょうがないのかなぁ。
の「もはやない」はちょっと味気ないし、
の「またとない」は――私は非常に好きだけど――現代の言葉遣いとしては違和感があるし。(追記:2007年10月に改版されました。訳は変わっていないものの漢字の字形、仮名遣いは改められています)
でもその違和感がまた雰囲気があっていいと思うんだけどなぁ。
大鴉はいらえた、「またとない。」
あぁ、でも英語詩を日本語に訳してしまうという行為自体が不毛なのか?
(追記)
これを書いた後も、時々読んでいるけど、対訳版は英語詩を英語で楽しむためのものであって、訳はそのための手助けだということなのね。
なので、上に書いたことは完全に的外れで、英語詩の韻を意識させるという意味では "Nevermore"のままでも正解。
英語詩に親しんでおくと、
の聴き方もちょっと変わるね!
■バッドノウハウって
葉があります。"><
http://q.hatena.ne.jp/1142543835
ソフトウェアの世界で「バッドノウハウ」という言葉があります。システムに欠点があるとき、それを直すのではなく、その欠点を回避するために磨き上げられた手段、というようなものを表す言葉です。
ひさしぶりのhatenaカテゴリの様な。
ともかく。
バッドノウハウって……違うよね?
確かに「システムに欠点があるとき、それを直すのではなく、その欠点を回避するために磨き上げられた手段」はバッドノウハウが醸成される原因(の一つ)ではあるだろうけど、バッドノウハウという言葉が指す概念はそうではないハズ。
自分の言葉で書いてみるか。
"問題を解決するための手段"であるはずのソフトウェアが――もしくはそのソフトウェアを使うために――その問題およびその周辺のソフトウェアとは全然関係がない知識を必要とすること。もしくはその知識そのもの。
あるいは、
あるソフトウェアが、それを使う上で周辺のソフトウェア――もしくは同種のソフトウエア――と著しく異なる様な特徴を持ち、目的を果たすために周辺ソフトウェア――もしくは同種のソフトウエア――とは異なる知識を必要とすること。
てな感じか。
自信がないので、他人任せで良回答を期待。
■無限大という数は存在しない
の姉妹編。
「『無限大』は『数』ではない」という話。
「無限大」が「数」だとしよう。
その言葉の感覚から「無限大」は「他のどんな数よりも大きい数」ということになるだろう。
しかしながらこれは「自然数が無限にある」ことに反する。
なぜなら「無限大」が「他のどんな数よりも大きい数」であるなら「自然数の集合」は「無限大という数」という上界が存在することになってしまうから。
したがって「無限大」なる「数」は存在しない。
終わり。
これは数学の話ではなくてただの言葉遊びなのであしからず。
■極限で使われる=は等号ではないのではないか?
つらつらと考えてみたこと。
Wikipediaの"極限"の項目の引用から。
これによれば、数列\(\{a_n\}\) がある値αに収束するとは、次のようなことを言う。
\(\normalsize\displaystyle~\forall~\varepsilon>0~\;\exists~n_0\;~\textrm{~s.t~}\;~\bigg[n>n_0\Rightarrow~|a_n~-~\alpha|<\epsilon\bigg]\)
これが極限であり、この事実をこう表現する。
\(\normalsize\displaystyle~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~a_n~=~\alpha\)
さて。この = は等号なのだろうか?
なにやら難しい理屈から数列\(\{a_n\}\)
の極限なるものを考えたときの表現であってこの = は「左辺と右辺が同じ値ですよ」という意味での等号では無い気がする。
数列\(\{a_n\}\)
が正の無限大に発散する時、どう書いただろう?
\(\normalsize\displaystyle~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~a_n~=~\infty\)
だった。
で、一つ前のエントリの話になる。\(\normalsize\displaystyle~\infty\)
って、「数」じゃないのだ。だから、この = は普段使っている"等号"とは意味が違うんじゃないか? と思った。
さて、数列\(\{a_n\}\)
,\(\{b_n\}\)
が共に収束し
\(\normalsize\displaystyle~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~a_n~=~\alpha\)
かつ \(\normalsize\displaystyle~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~b_n~=~\beta\)
である時、
\(\normalsize\displaystyle~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~a_n~\pm~b_n~=~\alpha~\pm~\beta\)
であり、また、
\(\normalsize\displaystyle~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~a_n~~b_n~=~\alpha~\beta\)
\(\normalsize\displaystyle~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~\frac{a_n}{b_n}~=~\frac{\alpha}{\beta}\)
でもある、極限の最初の方で教わる規則だ。
……よく見て欲しい。
\(\normalsize\displaystyle~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~a_n~\pm~b_n~=~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~a_n~\pm~\lim_{x~\rightarrow~\infty}~b_n~=~\alpha~\pm~\beta\)
と最初に書かれることはない。一つ前の段落に書いたそれぞれの式の = は、普段目にしている"等号"とは似て非なるアナロジーとしての記号のはずなのだ(それは、普通の計算式の = と、方程式の = が似て非なるものであることに近い様な気もする)。
ところが、いつのまにか上の様な書き方が、それと意識しないうちに忍び込んでくる。
最初はアナロジーとしての記号だったものが、いつの間にか普通の計算式での = と同じ様に機能してくる。
で、思ったのだ。
まるで、プログラミング言語における演算子のオーバーロードみたいだなぁ、と。
終わり。
これもまた、数学の話ではなくてただのお遊びなので、あしからず。