2005-12-07 "たかだか"にまつわる数学と日常の断層, 壺算, 宗教は嫌い [長年日記]
■"たかだか"の認識 数学と日常の断層
たとえば、数学で使う「たかだか」という言葉遣いにはいまだになじめない。日常語で「アメリカの歴史はたかだか200年」といえば、どうしても「たった200年かよ、けっ、顔洗って出なおしてきな」とでもいうよな、どこか見下したような意識が感じられるのだけど、数学では単純に「xはAを超えない」といった意味で「xはたかだかAである」というような言い方をする。
読冊日記
うん。確かに、数学について語っているモードと日常のモードの間で、"たかだか"という言葉にニュアンスの違いがある。
あまり意識していないけど、私が日常で"たかだか"と使う時に、数学について語っているモードの時の自分がちょっと漏れだしていて、他の人とは違う感覚でその言葉を発しているかもしれないなぁ、なんて思った。でも過去の日記を検索してみると、日常的なニュアンスでの"たかだか"でしか使っていなかったりして逆に意外だったり。
T-ponさんのはてなダイアリーのコメントにこう書いたことがある。
肝心なのは、
T-pon’s 一日一文Palm日記 with T|T5
Xは無限に大きくなる、
わけですが、
Xを表現する2のべき乗の集合はたかだかn個の有限集合である、
点です。
まぁ、このコメントは、
無限に関する質問です。
http://www.hatena.ne.jp/1130932358
から続く流れの中でないと意味を汲み取れないと思うのでちょっと書き直してみる。
自然数は無限に存在する
どんな自然数でもたかだか有限の桁数で表記できる
この2文をこうやって並べて書いてみると、なんか不思議な感じがするのでは?
追記
続きはこちら
■Delphi2005のアップデート
買ってからアップデートかけてなかったなぁ、と思って米Borlandからアップデートを持ってきて実行してみたらCDを要求されて、仕方がないなぁと思って持ってきて続行するも途中でエラーが発生して、それならとネットワーク経由でやったり外付けUSBのドライブでやったりしても駄目で、気を取り直して検索してみたら、
というのを見つけてがっくりしたところ。
■Ever17 PV version FLASH
refererに「EVER17 FLASH」での検索があったので気になってWeb検索してみた。
FLASHムービーの、Ever17 PV version ってのがあったみたい。
もちろん画像転用のイリーガルなものなんだろうけど。
追記
Internet Archiveからページを出して、download から持ってくる。
http://web.archive.org/web/20041010045751/http://www.hinocatv.ne.jp/~platypus/ever17-pv.html
■壺算
古いはてなだけど「その概念を指し示すちょうどいい名称」が判ったのでメモ。
この手の詐欺は落語の名前を取って壺算と言われているらしい。
微妙に違うか? という気もするが、等価に交換したものを2回数えさせて騙す、という構造は一緒のハズだ。
10人の旅行者がホテルに泊まろうとしていた。
ところが、ホテルにはあいにく9部屋しか空いていなかった。
そこでマネージャーは名案を思い付いた。
マネージャーは最初の客に言った。
「Aさん、ロビーでしばらくお待ちになってください。
後ほどお部屋にご案内します。」
そして、マネージャーは先ず、
1001号室に2人目の客を案内し、
1002号室に3人目の客を、
1003号には4人目、1004号には5人目、
1005号には6人目、1006号には7人目、
1007号には8人目、1008号には9人目を案内した。
そして、Aさんのところへ戻ってきていった。
「お待たせしました。1009号室にご案内いたします。」な、なぜ・・・?
http://www.hatena.ne.jp/1124291242
■ieで見るとサイドバーが下の方に沈んでしまう
という現象がこのblogで起きることは把握していた。
ちょっとCSSをいじって大分マシになったけど、asin指定でAmazon商品を表示していてアーティストの項目が長かったりするとまだ発生する。
float指定した時のwidth:autoが正しく機能していない様に見える。しばし悩んで回避する方法を思いつかなかったので放っておこう。
■宗教は嫌い
確かに、宗教は嫌い、だ。
信仰の強さで考えてみる。おそらく私は、神道に対する信仰が一番強いと思う(自分のことなのにあやふやだなぁ)。
でも、宗教としての神道はやっぱり、嫌い、なのだ。
でも引いた様に、根拠薄弱な「神無月・神在月」という信仰がなんで広まったのか、というようなことを考える。現代ではWebサイトで日本書紀からの引用を以て説明している。でもそこに、無理なこじつけではないか? という疑いを見いだしてしまう。
菅原道真――いわゆる天神様――は、御霊神だ。死後に怨霊となり、それ故に奉られて神となった。
現代では学問の神様ということになってしまったが、本来は怒りの神だ*1。
死後百年もの間、彼は怨霊として恐れられた。怒りの神としての姿が失われ、護国の神となるまでに百年もの年月がかかった。
なぜ?
菅原道真の死後百年に渡り、彼を怨霊たらしめたのは、彼を鎮める側である筈の者達だったのでは? という疑いを見いだしてしまう。
信仰はあるはず。なのに、宗教として見てしまうと、疑いと嫌悪感が拭えなくなってしまう。
色々と考える機会は多いこの話題、言葉としてアウトプットするのは初めてかもなぁ。
あ、そうそう。はてなブックマークのコメントで見た、
「仏教徒ならば唯一絶対のものはないと考えている」の逆は果たして真だろうか。
という指摘は"もっともだ"と思った(ここでの"逆"は論理学でいうところの"逆"だろう)。
(追記)
元記事から離れた話になったな(まぁいつものこと)。
日本人は宗教が嫌いというよりは、無関心で、無知で、無自覚なんだろう。
テレビや雑誌の12星座占いとか、自称霊能力者が出てきて地縛霊がとかあなたの前世は○○ですとか言っている番組なんか、「クリスチャンはどう見てるんだろう」なんて考えたことがない人が作ったり見ていたりするんだろうな、とか考えたりすることはある。
*1 本来は、ということを言い出せば、現在の太宰府天満宮はお寺だったわけなのだけど……。