2006-10-21 [長年日記]
■素通り禁止ルール
私的領域の確保のためにはアクセス・コントロールでは無理、という話題。
そしてこれを受けて、次の第4回で、「 アクセス・コントロールによる私的領域の確保は処方箋となるか」というテーマで議論となる。「ネットで私的領域を確保するためにはアクセス・コントロールではだめだ」「「繋がりの社会性」を欲望しているユーザーにとっては、アクセス・コントロールは実はなんの意味もない」という議論だ。
高木浩光@自宅の日記 - リンクの話 まとめ
ここに出てくる「『繋がりの社会性』を欲望しているユーザー」というと頭に浮かぶのは、かつての(今でも?)ぱどタウンで出てきた、そして現在は mixi での「素通り禁止」という話題。
http://homepage3.nifty.com/kazano/200406b.html#17_t2
http://pasoru.under.jp/contents/aina.html#Anchor-61624
20060906.html#p05
高木さんの発言、
彼らがいったいなにを期待して書いているのかを考えてみると、よく私が見かけるのは「こんな個人のどうでもいいことに反応してくれる人がいてくれた」と喜んでいる感情なんですね。つまり、よくわからない通りすがりの人が、自分なんかに興味を持ってくれるということを求めているわけです。
ised@glocom - ised議事録 - 10. 倫理研第4回: 共同討議 第2部(2)
を読んで、まさにこういう人たちが「素通り禁止」を声高に叫ぶんだろうなぁ、と感じた。
「不特定多数の人には見られたくない」が「特定多数の人には見て欲しい」という感情。たくさんの人に見て欲しいけど、見てくれた人をトレースしたいという欲求。
弱い人はアクセス・コントロールして閉じる、強い人たちは公的な空間で開かれる。僕たちはこの二分法を暗黙に前提としてきたけど、実はそもそも、その二分法が成立していないから問題が起きているのではないか。
ised@glocom - ised議事録 - 10. 倫理研第4回: 共同討議 第2部(2)
「素通り禁止」ルールは、「その二分法が成立していない」ことの証左であり、「私的領域の確保のためにはアクセス・コントロールではだめ」なことの一つの実例かな、と思った。
アクセス・コントロール──つまり見てくれた人を特定できるid*1があると、見る側にも心理的負担が発生するだろう、と想像する。
そして、そういう心理的負担を無視できる人は、「素通り禁止を掲げる人」からみると「ルール違反な無法者」となるのではないか。
■USBドライブを落としたんです! 助けて!
何かな、と思って読んでみたら、USBドライブのAutoPlay(autorun.inf ね)でダイアログを出す方法の解説。
拾った人がUSBをマシンに指して、AutoPlay を選ぶとダイアログで持ち主のプロフィールと拾った人へのメッセージが出る、というわけ。
でも、拾ったUSBメモリを指してみようという人、どのぐらいいるんだろうか? (ソーシャルエンジニアリングが得意なクラッカーなら指すだろうけど、その時には返してもらえそうにない)
ウィルス入りUSBメモリを──例えばライバル会社の入り口とかに――わざと落としてみるなんていう攻撃とか。
via
*1 同義反復だなぁ。