2006-01-25 親指シフト, 立場は逆転した [長年日記]
■無題
機械の意識の有無を判定する方法について。
将来、「心を持つ人工知能を造った」、あるいは「人間の意識をコンピュータに転移することに成功した」と主張する人が現れたとします。そのコンピュータを前にしたとき、どのような方法によれば意識の有無を判定できるでしょうか?
http://www.hatena.ne.jp/1138120442
成果物ではなくて理論と手段を呈示させるのが先だろう。
ともあれ、この質問は無意味だ。いや、冗長だ、と言った方がよいか?
暗に「現時点で我々は"意識"を定義できない」という前提がある。すでに"意識"の定義を我々が手にしているのならばそれに従い判定可能だからだ。
将来「このような主張をする人」が現われた時点で、人間が"意識"を定義できていれば、(前述の通り)それに従い判定可能だ。その時点で"意識"を定義できていなければ、「このような主張をする人」が"意識"の定義を行う必要がある。もしくは、自分が作ったものはこういうものです、と説明する必要がある。
"意識"をどのように定義したらよいと思いますか? と問えばよいのに、無駄な例を挙げることで、質問を混乱させているだけ。
ただ、勝手に想像すると、意識的にそうしたのだろうな、とも思った。
■サーバサイドRSS aggregator, ブロガーライセンス
ふむ。ブロガーライセンスが面白い。
IDを振ってblogを登録させて、そのblogにバナーを貼るとかが許諾条件になるのだろうか? いやblog URLの登録——つまりは収集——だけでもいい、と考えているのだろうか。
ニュースサイトから自分が読みたいものだけを見せるベイジアンフィルタ搭載、とかだったらいいなぁ。
に載ってるけどね。
■親指シフト
最初の文章は確かにその通りです。ただし、ローマ字に分解することが大きな負担になっているかどうかは意見が分かれるところです。上記のブログの記事へのコメントには、ローマ字でも、「文字列よりも指の感覚で日本語の文字を覚えちゃいました。」とあります。考える暇もなく指が動いてしまうということなのではないでしょうか。
親指シフトウォッチ: Re: パソコンで文章作成するときにおける効用と問題点と「親指シフト(@感じる、考える、表現する。)
私も同意見です。
親指シフトで入力しているとよく「凄いですね」と言われることがままあります。
私には、頭の中でローマ字に分解することが大きな負担になります。それは親指シフトを使っているからです。なのでローマ字でタタタタタタッと入力できる人を見ると凄いなあと思います。
ローマ字で入力している人は、ローマ字に分解することなくもう体で覚えてしまっている様に見えますし、実際に聞いてみるとそう答えます。親指シフトで入力していることに「凄いですね」と言ってくる人は、よくよく聞くと「2種類のキー割り当てを覚えていることが凄い」と言います。
それもまた慣れの問題でしかありません。最初の頃は真性親指シフトのキーボードだったので、キートップの文字を見ながら打っていました。次はWindowsでのエミュレーションなので、配列表を印刷して縮小コピーしてラミネートしてPCのディスプレイの隅に貼ってました。今は体の感覚で打てます*1。
私がローマ字入力を嫌うのは、英語を打っている時の脳内モードとローマ字入力を打っているときの脳内モードがうまく切り替わらないからです。
それも慣れの問題なのかもしれません。
でも、ローマ字入力の時と英語を打っている時ではキーの配列が一緒です。自分が英語を書いているのか、日本語を書いているのか? のモードの切り替えには、配列が違う方が都合がよいのではないかと思っています。
思っているだけで実証はできません。なぜなら、私がローマ字入力を採用する可能性があるとしたら、親指シフトが絶滅した時だから。さらにもしそんなことになっても、きっとJIS配列でカナを打っていることでしょう。昔の様に。
さらに余談。本当は、プログラムを書くのであれば、日本語キーボードではなくて英語キーボードの方が好きです。でも英語キーボードには変換キーも無変換キーもありません! これでどうやって親指シフトをしろと?
キートップは英語キーボードのそれだけど、変換、無変換キーがついているキーボード……。無いよなぁ。
例えば、これ↓
なんかも、スペースキー長すぎ! 短くしてその両隣に小さいキーを付けてくれ! と思ってしまいます。
編集と追記 (2011/06/20)
今だから書いてしまうが、このエントリ、富士通社内サーバの掲示板に引用されて「俺も欲しい! 商品化したらどうだろう?」的内容のコメントが付いていた。
でもそこから話は進まなかったらしい。残念。
■あれ? おかしいなぁ
下のエントリで「マスメディアにあまり感心が無い私」なんて書いたけど、いつのまにか「ライブドアのことを考えてこんな話をblogに書いている自分」が自分の中にいることにふと気がついた。
ライブドアのことを考えはじめたのは、一体どの時点からだったろう?
情報メディアって怖いね(ここで言っているのはテレビや新聞,雑誌といったマスメディアではなくて、IPネットワークのこと)。
……いや、怖いのは「情報」の方か。
■立場は逆転した
ライブドアって今までは自身の株のキャピタルゲインを資金にして、取り込みたい事業を展開している企業を買収していた。当然、買収はそうしやすい企業、言い換えてしまえば、株価が安くなっていて買いやすくかつ大株主になりやすそうな企業が対象だ。この際、買収前の実績なんて(あまり)関係ない。買収した後に「ライブドア」という大看板を掲げててこ入れするからだ。
球団買収のあたりからマスコミでも頻繁に「ライブドア」が取り上げられるようになり、その大看板がものすごく大きくなると、今度はその対象が「買収しやすそうな企業」である必要も無くなった。自身の資金以上の買収資金を、レバレッジを期待する投資家から調達することが可能になったからだ。それは「ライブドア」という大看板のおかげ。テレビ局を買収しようなんてことを現実に考えられるほど、「ライブドア」という大看板を大きくしたのは、他ならぬテレビ局というマスメディアの力だ、という様な論はきっと今までに語り尽くされているのだろうけどね。(マスメディアにあまり感心が無い私は、今これを書いている間にそんなことを考えて、で、書きたくなったというだけの話。)
閑話休題。
そして今、ライブドアの株が安くなり、売りたい人もわんさかいる。
すでに立場は逆転した。
もしももしも、ライブドアが持っている事業のうちのどれかを、真剣に欲しいと考える誰かがいたとしたら?
そう。ライブドアを買収して、欲しい事業だけをその「誰か」の大看板を掲げててこ入れし*2、他の事業は全てやめてしまえば、もしくは、事業ごとに分割してさらに売ってしまえばいい。
もしライブドアというものにその様な価値を見いだす誰かが現われたなら、「虚業」ではなかった、ちゃんと魅力ある事業をしていた、ということになる。けれど皮肉にもそんな誰かが現われたなら、きっとライブドアというものは無くなってしまうのだろう。
逆にそんな誰かが現われなければ、ライブドアというものがどうにかこうにか存続していったとしても、「虚業」と叩かれても仕方がない。
註:ライブドアに支援的に金を出す、という可能性を抜かしているのはわざとだ。「支援的に」というのは、事業も存続させるしライブドアという看板もそのまま残す、という意味。
註2:このエントリは、事実と経験に裏付けされた予想ではなく、憶測と妄想を書いているだけのものなので注意。
■私にもできる未来予知
次の流行語大賞に「虚業」がノミネート。