過去の日記

2007-09-11 [長年日記]

the remainder of the application [hatena]

答えたいと思う質問に限って回答できない罠。

【プログラミング・翻訳】UIデザインにおけるMVCのModelに関する英文です。「The Model is the interface to the remainder of the application」を訳してください。Model/interface/applicationはカタカナで構いません。remainderをカタカナにせず、意味が通るにはどう訳すべきでしょうか?
http://q.hatena.ne.jp/1189422295

ともかく。

"the remainder of the application - Google 検索

検索してみると"the remainder of the application" という言い回しは頻出するもののようだ。


History of the graphical user interface - Wikipedia, the free encyclopedia

あたりを見ると、

X's network transparency protocols allow the display and input portions of any application to be separated from the remainder of the application and 'served up' to any of a large number of remote users.

とある。

Xのネットワーク透過的なプロトコルによって、様々なアプリケーションの表示や入力に関わる部分(display and input portions)を、アプリケーションの他の部分(the remainder of the application)から分離できる。

てな感じか。


だから、質問にある文の前に、「アプリケーションから○○を分離する」にあたる文があるだろうと推測する。
それはおそらく「View は表示に関する部分をアプリケーションから分離したもの」で「Controller は入力(に対する反応)に関する部分をアプリケーションから分離したもの」というような感じではないだろうか(すごく大雑把だけど)。

とすれば、1.の回答にいう「アプリケーションの残りの部分」という直訳的な表現は的を射ていて、アプリケーションから View や Controller にあたるものを除いた「残りの部分」。すなわちビジネスロジックのことを指していると思って良いような気がする。

ビジネスロジックを構成するのが"データ"と"手続き"であり、その手続きを実行する interface を特に Model と説明しているのかな?
Model が変更された時に View に通知する(UI の状態を変える)のも Model の仕事だろうけど、そこには触れていないのか。デスクトップアプリケーションの MVC と違って、Webアプリケーションの MVC では確かに Model にはそのような仕事はないような気もするし。

テレビの嘘を見破る 読了 [book]

出版年に注意。あるある大辞典などとは関係がない。
著者は多数のドキュメンタリー映像を手がけた方で、ドキュメンタリーとフィクションの境、「再現」の意義、「やらせ」とは何か、といった話題。

テレビの嘘を見破る (新潮新書)

  • 作者: 今野 勉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売: 2004-10-01
  • ASIN: 4106100886
  • メディア: 新書
  • amazon.co.jp詳細へ

とりあえず目次を。

第一章 テレビ的「事実」はこうして作られる
第二章 ドキュメンタリーとフィクションの境界線
第三章 NHKムスタン事件は「やらせ」だったのか
第四章 テレビの文法

といった感じ。

そしていきなり話は逸れるが、私は山形国際ドキュメンタリー映画祭で『パトレイバー2』を見てきた。ドキュメンタリー映画祭にアニメーション映画が招聘されているのだ。(押井守監督が来るはずだったのだけど、犬の出産と重なって伊藤和典さんが来ていたというのは余談)
なんとなく"なるほど"と思ったものだが、けれど何が"なるほど"なのかを深く考えたわけじゃない。


さてこの本。
たくさんの考えるべき問題、考えさせられる質問を提示してくれるが明確な答えはない。メディアのありかたは刻一刻と変化する。作り手と見る側の関係も同様。
実際、作り手と見る側の関係が一瞬にして変化した様を、あるある大辞典の件などを通じて、見てきたではないか。


この本の核心となるのは「再現」という言葉である。
昨今のテレビに表れるこの言葉はとりあえず無視してもらって、過去に起こった事象あるいは過去にあった風景を意図的に作り出し映像に収めることを「再現」と呼ぶとしよう。
「再現」で構成された映像を、ドキュメンタリーと呼べるだろうか。

例えば、今は行われなくなったある祭りがあるとしよう。
その祭りを知る人たちに協力してもらい、できうる限り忠実に「再現」する。
それを、どの様に「再現」したかも含めてカメラに収める。

どうだろうか。これって確かにドキュメンタリー映画じゃないか?
実はこのことについては単純な答えが用意されている。
ちょっと長いが引用してみる。

ポール・ローサの著書『ドキュメンタリィ映画』に出てくる、ドキュメンタリー映画を定義する文章です。一九四八年に世界ドキュメンタリー映画連盟が一四カ国の連盟で発表したものです。
邦訳ではこうなっていました。

〈ドキュメンタリィ映画とは、事実の撮影または真実なかつ正当な再構成によって、説明されたリアリティのどんな側面をもセルロイド上に記録するというすべての方法を意味する〉

(略)

原文をとりよせてみると、再構成という単語は reconstruction です。たしかに「再構成」です。
ある夜。テレビでアメリカのドキュメンタリー番組を見ていますと、画面の隅にその reconstruction が表示されました。あっ、と思いました。
reconstruction は、私たちのいう「再現」なのだと気づきました。
世界ドキュメンタリー映画連盟は、一九四八年に、実写はもちろんのこと再現もドキュメンタリーだ、と認めていたのです。

なるほど、と改めて思った。
ドキュメンタリー映画祭にアニメーションが招聘されたのも不思議じゃない、と。


話はそれで終わるほど簡単ではなく、ドキュメンタリーというものについて、作者が作り手としてどれほど真剣に考えてきたか。
その真摯な姿勢が心地よい。