2005-10-26 いばらの王を読み終わって [長年日記]
■iPod nanoのケース届いた
Vis-a-Vis(http://www.visavis.jp/)に注文していたiPod nanoのアルミケース届いたー。
■いばらの王 読み終わって一晩明けてからのちょっとだけ冷静な考察
昨日のエントリは、
を読み終えた後に浮かんだイメージを未消化のまま、ガーッと書き殴って、そのくせいばらの王に関してはネタバレしちゃいかんと気をつかったらしく全体的に抽象的な話ばっかりで、なんだか分けわからん状態に陥っていてちょっと恥ずかしい。
冒頭のラッセルのパラドクスや、最後の熾天使来臨る街からの引用だけは、後から資料を持ち出してきて書いたのだけど。
いずれにせよ、「イメージが物質化する」「ネットワークの世界がリアルに干渉をはじめる」「ネットワークとリアルの境界がなくなる」という主題(テーゼ)の作品を読むと、どうしても"熾天使来臨る街"のあの詩みたいな設定文が頭に浮かんでしまう。それほど私の根幹に食い込んでいるのは確か。
で、いばらの王だけど、最終話で主人公が自分の正体に気がついた後、自分の実存性に悩むこともなく、"自分"を肯定して受け入れていることがすばらしい。
マルコが「彼女は強い」と言い切って信頼したことや、彼女がシズクをどれほど大切に思ってきたか(その逆もしかり)、ということを考えるとそれで正しいと思う。ましてや、あの場面で「自分は何なのか」についてぐじぐじと悩まれてもストーリーの展開上困ってしまうし……。
作者としても意図的に、ラストシーンで主人公がぐじぐじと悩んだりしない様に注意深くキャラクタ造形をしてきたと見える。
あと思うことはというと……。
「人間のイメージが物質化する」という設定を持ち込みつつも、「自分の実存性」や「周囲の状況が現実か否か」という主題を排除してストーリー造形をしたのが、筆者の力不足に依るものではなく意図的なものであることを、巻末のおまけ漫画がさりげなく示している。
というよりもそうであることを示すために、あえて巻末にあんなおまけ漫画を描いたのではないかと疑っている。