2007-01-08 [長年日記]
■神は沈黙せず 読了
しかし……、これ、面白い……か?
内容は、まぁいい。だけどこの話をやるなら、きっと中短編の方が切れ味鋭いものになっただろう。
けれど、それでもなお、この話を長編に仕立てた理由はよくわかる。
いわゆる「もはや科学では説明できない現象」のほとんどが、どれほど一考に値しないクズばかりであるか、あるいは一考の価値しかないかをこれでもかこれでもかと語り、ふるいにかけてゆく。
UFOの目撃、異星人との邂逅(この2つを一緒くたにしてはいけないのは作中の説明の通り)、預言や予言(この2つも……以下略)、カルトの心理、人間は神の手による傑作である、前世のカルマ、科学の進歩とともに変化するUFOの形状(なぜ?)、空からの落下物、超能力、超心理学者の心理的陥穽、輪廻転生、魂の実在……。
そしてそうやってもなおふるいの上に残る、いくつかの作中に起こる現象に対して、「これは真に神の御業である」と作中の人物に――そして読者に認識させる必要があったから、そこまでやったのだ。
だから、その辺がなんら目新しいことじゃない者が読むと、作品の大部分が退屈なのだ。その間に入ってくるストーリーやSF的要素は確かに面白いが、他の部分が邪魔で邪魔でしようがない。
でもそれらを取り除くと、ストーリーが立ちゆかないし、難儀なものである。
作中のある人物が言う。
「超能力はない。しかし、『超能力と呼ばれる現象』はある、ということです」
これ、私の霊魂に対する態度と同じだなぁ。「霊魂はない。しかし、『心霊現象と呼ばれる現象』はあるかれしれないし、おそらくはあるのだろう」てな感じ。
その人は後に、魂の実在、輪廻転生について語り、それを実証する実験を行う。それには、ほぅ、とうなった。そういう手があったか。とはいえ――作中では実験は否定的な結果で終わるのだけど、仮に肯定的な結果が出たとしても――疑問は続く。「明らかに生前の記憶を持っている幽霊」と「魂」は同一の存在なのか?
そんなわけで完全な実験では、ない。でも価値がないということではない*1。
短時間で読ませるだけのパワーと面白さは、確かに、ある。
余談
この本を読んでいる最中にカミさんの曰く「また、山ほどのウンチクが書かれてるんでしょ」とのこと。アオリもあらすじも知らないわりに、鋭いなぁ……。
■神は沈黙せず を読んで カルトとマインド・コントロールに関するいくつかのこと
エントリを改めて。
「神は沈黙せず」の冒頭。主人公がUFOカルトに潜入して、その末期に立ち会う、というシークエンスがある。カルト内の心理ということに関してはよく書けているし、そのあと主人公が正しい姿を伝えようとしてもそうできなかったというのもいい(いい、というのは「そうあってはならないということを伝えていていい」ということ)。
上巻 p173
たとえば私は、の信者たちがみんな、どこにでもいるごく普通の人たちであることを強調した。彼らの宗教的信念は確かに奇妙なのものではあったが、その人格は一般人に比べて特に異常というものではなかった。彼らが狂気だというなら、世の中の大半の人間は狂気ということになる……。
しかし、どの番組でもその発言はことごとくカットされた。なぜならシナリオにない発言だからだ。どのテレビ局でもそうだが、ディレクターやプロデューサーが求めていたのは、大壺やの信者たちがどれほど異常であったかという証言なのだ。
(略)
だから、彼らがどれほど異常であるかという情報を流し、受け取ることで、安心したいのだ――「あいつらは異常だ、俺たちとは違う」と。
カルトの外側にこの心理が働く限り、カルトの内情、マインド・コントロールの過程というような情報は広く流通しない。
ありゃ、と思ったのは主人公がカルトの教義について「よほど積極的に努力しないかぎり、信じられるものではなかった」と記した後で、UFOやUFOカルトに関する情報(この2つも……以下略)、生物学や進化論に関してちゃんと予習をしていたのでカルトの教えることが稚拙なパロディでしかないと看破するところ。「知識があれば大丈夫」とも読めてしまうのではないか?(山本弘はそういう風には書いていないにも関わらず)
p222から
どのような人がマインド・コントロールを受けやすいのだろうか。(略)本書において、マインド・コントロールが、だれで受けてしまう可能性があることを示してきた。
(略)
それでもなお、もしマインド・コントロールを受けやすい人のタイプを考えようとしているとしたら、そういうふうに考える人は、おそらく「自分だけは……」、あるいは「私の身内だけは……」といった例外感をいだき、根拠もなく安心しようとしている人ではないだろうか。それこそ危険な発想であろう。この発想は「基本的錯誤帰属」の罠にはまっているのである。
とある通りである。カルトや、生物学や進化論についての知識があろうと無かろうと、科学的な思考ができる人間であろうと無かろうと、マインド・コントロールはだれでも受けてしまう可能性がある。マインド・コントロールに対する知識を十全に持っていても、同じであろう。それが自分を取り巻いて働いたときにちゃんと情況を判断できるかどうかは疑問である。
またこの小説では「判断すること」をカルトに預けてしまった人が、思考的にどの様な途をたどるか? を書くことで、他の「もはや科学では説明できない現象」を盲目的に信じてしまう心理を書き出している。
けれど、どのようにしてカルトはマインド・コントロールをおこなうか――言い換えると、判断の基準をカルトに全面的に預けさせるために何をするか――についてはほんの少ししか書かれない。当初は穏健だったカルトが、困窮の末に集まった信者から保険証や運転免許証やクレジット・カードやキャッシュ・カードを取りあげる、という情況が書かれる、そんな程度である。事態がそこに至って主人公は危険を感じ、カルトを抜ける決心をして助かるわけだが、これはこのカルトが本当に穏健だったからそういう順番だったというだけ。
上巻 p164
すると彼女は顔を伏せ、暗い声でつぶやいた。
「……だって、どこにも行く場所なんかないじゃない。ここしかないのよ」
私は絶句した。そう、彼女は私とは違うのだ。現金もカードも教団に差し出したうえ、夫を拒否し、養育の義務を拒否し、現世のすべてを拒否した彼女には、帰ることなどできはしない――物理的にも、心理的にも。
とある通り。
社会の側に、受け入れる余地を消すこともマインド・コントロールの一つの(あくまでも一つ)手法なのだ。だからこそカルトの外側にいる人は、最初に引用したような「あいつらは自分たちとは違う」なんていう態度を取ってはいけない。「もうお前は私の子ではない」などという言葉をかけてはいけない。それではカルトの中にいる、逃げ出したい人が社会に戻ってこれなくなる。それは、カルトにとっても好都合な社会なのだ……。
■Linked Listの問題
むむむむ。とりあえずメモ。
るNodeからリンクをたどっていった場合、いくつの異なるNodeをたどることができるかを計算するプログラムを書け。ただし、Nodeを変更してはならず、定数量以上の追加のメモリスペースを使ってはならない。
lethevert is a programmer - 練習問題
*1 この実験が山本弘氏のオリジナルなのかどうかは不明。