2008-08-03 [長年日記]
■押井守ファンならばトーキング・ヘッドを思い出すはず
押井「映画は観ただけでなく、語られることで映画として成立すると思っています。映画について誰と何を語るかで、真価が決まるのではないかと。今回はそれを特に感じています。大事な誰かと語っていただければ幸いです」
【レポート】押井守監督「映画は、語られることで完成する」 - アニメ映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』初日舞台挨拶 | ホビー | マイコミジャーナル
(「トーキング・ヘッド」より)
語られた映画とは実は常に映画の記憶のことでしかない
指し示すことはおろか引用すら出来ず
語ろうとする時には呈示することも不可能で
しかも他者との共時的体験すらない個的な経験
それが映画を観るという行為の実相だ
人は自分が観たものを言葉で表すことは出来ない
観るということと観たことを言葉で表すということの間には
結局は何の関係もないんだから
映画を観ること
観たこと
観た映画について語ること
そして映画を観ることについて語ること
これらの行為の間にはいかなる共通項も存在しないし
複数の人間の間に於いてはもちろん
同一の個人にとっても一本の映画が同じ体験として我々の前に立ち現われることは
テキストとしてのフィルムが単一の存在であるという幻想を前提としてしか……ありえない
押井さんもちょっと変わったな、と思った。