過去の日記

2009-11-02 [長年日記]

背理法はなぜ証明になるの? という話 [book][etc]

数学ガール/フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2)

  • 作者: 結城 浩
  • 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
  • 発売: 2008-07-30
  • ASIN: 4797345268
  • メディア: 単行本
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の第4章は「背理法」でした。
背理法とはなんだったでしょう?

背理法とは《証明したい命題の否定を仮定して矛盾を導く証明法》のことである。

とあります(p98)。
「矛盾を導く」とはなんだったでしょう?

「矛盾を導くというのは、
   《Pである》かつ《Pではない》
を示すこと。Pは、どんな命題でも構わない。

でした(p106)。

さて、では、なぜこれが証明になるのでしょう?
という話をしたいと思います。


なのですが……、これを学校で習った覚えがないのです。

背理法 - Wikipedia

を見ても……書いてありませんね。

なので、つらつらと考えていました。そう、ここから書くことは、自分で考えたことです。
なので単純に間違っているかもしれません。お気をつけを。
そのつらつらと考えていたことが、

数学ガール/ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)

  • 作者: 結城 浩
  • 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
  • 発売: 2009-10-24
  • ASIN: 4797352965
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を読むことで(「読み返すことで」と書いた方が正確だけど、それはどうでもいい話)形になりました。
それでも間違っているかもしれません(ちょっとしつこいか)。


ある命題Aについて、証明ができるのかどうか? ということを考えます。

  1. Aだけが証明可能
  2. ¬A(Aの否定)だけが証明可能
  3. Aと¬Aの両方が証明可能
  4. Aも¬Aも証明できない

の4通りです*1

背理法で命題を証明するには、Aの否定を仮定するのでした。
実は私は「Aの否定を仮定する」という意味を取り違えていたのではないか、と思ったのです。
数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」のp136、公理についてのテトラちゃんとミルカさんの会話から。

「では、数学者がa prioriに公理が真だと仮定したのですね」
「それは違う。真偽は出てこない」とミルカさんは言った。
(略)
「あの、あの、あのですね……
   《真である》と《証明されている》は、違う概念
……なんですか?」

の部分です。

もしかして、
「命題Aの否定が真であると仮定する」
ではなくて、
「命題Aの否定が証明可能であると仮定する」
の方なのでは?*2


もう一度書いてみます。

  1. Aだけが証明可能
  2. ¬A(Aの否定)だけが証明可能
  3. Aと¬Aの両方が証明可能
  4. Aも¬Aも証明できない


元々の公理系で、「2.¬A(Aの否定)だけが証明可能」だったとすると、Aの否定を仮定しても矛盾がでてくるはずはありません。
「4.Aも¬Aも証明できない」でもそうです。
「3.Aと¬Aの両方が証明可能」であれば、もともと矛盾があるわけですから、Aの否定を仮定しても矛盾がでてくるのは当然ですね。しかし、しかしですね、Aの否定を仮定したら出てきた(=背理法の証明のために導き出す)矛盾はAの否定を仮定しなくても出てくるはずです。でもそうはならない。そうはならない《はず》ですね*3

そうすると残るのは、「1.Aだけが証明可能」です。
はい。
こうやって考えてみれば、Aが証明可能な公理系に¬Aを公理として加えれば(これの意味するところが「命題Aの否定が証明可能であると仮定する」なわけですが)、矛盾が出るのは当たり前ですね。
背理法というのは、つまり、そういうことなのかなぁ、などと考えたわけです。


おしまい。(続きはありません)

*1 3.は公理系の矛盾を意味しますね。

*2 この2つに実質的な違いはないかもしれません。「注目するべきポイントがどこなのか?」という視点を意識させるために2つを並べて書いています。

*3 実は、背理法を使って主張したいことは「Aが証明できること」でしかないので、「Aと¬Aの両方が証明可能」でも別にいいといえばいいのですが。矛盾がある公理系からはどんな命題でも証明可能なので、その場合でも「Aが証明できる」ことにかわりはないわけで。